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ラーメンの歴史|雑学

ラーメンの語源、麺の歴史、インスタント・カップラーメン、日本で最初に食べた人、味噌ラーメンの歴史など、奥の深いラーメンの歴史。

【ラーメンとは】
中華麺・スープ・具からなる日本の料理。中国の麺料理を原形に、日本で独特の発展をした麺料理。

日本で最初のラーメン店は、1910年(明治43年)創業の東京・浅草の「來々軒」。

大正時代より日本各地に広まり、現在日本では寿司、蕎麦、うどん、カレー等と同様に「国民食」と呼ばれる程広く親しまれるようになった。

近年海外へのラーメン店の出店の増加に伴い、アジアや欧米など国外でも知名度が高くなっている。中国・台湾など東アジア圏では、「日式拉麺(リィシィ・ラ・ミエン)」と呼んでいる。

【ラーメンの語源】
@中国語の「好了(ハオ・ラー)」(お待たせいたしました)の「ラー」をとって「ラー麺」となったという説。
A中国語の「拉麺(ラ・ミエン)」の発音から「ラーメン」になったという説。
B中国語の「柳麺(ラオミン-広東語)」による発音からきているという説。

以上の3つの説があるが、どれが有力な説か断定は出来ない。

【呼称の変遷(へんせん)】
昭和20年代までは、「支那そば」という呼称が一般的であった。
「中国人の」や「中国の」というニュアンスで、「チャンそば」とか「南京そば」とも呼ばれた。

四国や九州地方など西日本の一部では、蕎麦食があまり普及していなかったので、ラーメンを「そば」「おそば」と呼び、蕎麦は「日本そば」と呼称しているところもある。

独自のラーメンを形成した北海道や、ラーメンとは起源とは異なる「沖縄そば(うちなーすば)」が一般的な「沖縄」では、中華そばや支那そばと呼ぶことはない。

町中にある中華料理店では、ラーメンやチャーシューメンといった呼称を使用するお店でも、品目によっては「もやしそば」「五目そば」などという言い方をするお店も多い。

戦後になり、「支那」という単語の使用自粛が行われる中で、「中華そば」という名称が生まれた。
「中華そば」に代わり、「ラーメン」という呼称が一般的になったのは、1958年に「チキンラーメン(日清食品)」が発売され、「インスタントラーメン」という言葉が普及したことも理由の一つとされている。

現在では、「昔ながらのラーメン」といった「ノスタルジック」な意味合いを込めて、「支那そば」とあえて用いる場合もある。
「支那そば」から多くの日本人は、鶏ガラ醤油ベースの「懐かしのラーメン」を想起する。

「ラーメン」は、日本で独自に進化した麺料理なので、「らーめん」と表記しているお店も増えている。

【麺の歴史】
小麦粉は、紀元前7000年頃にメソポタミアで栽培が始まったとされている。
その栽培技術とそれを製粉する技術が、シルクロードを通って中国に伝わり、新しい食文化である「麺」が誕生した。

イタリアのパスタはマルコポーロがアジアからイタリアに伝えたという説があり、麺の発祥の地は中国であると一般的には考えられている。

中国では当初、「」とは小麦粉のことを指した。
その小麦粉を水で練ったものを「餅(ビン)」と呼び、それを焼いたり、揚げたり、蒸したり、茹でたりして食していた。

その中で茹でて食したものが「湯餅(タンビン)」で、これが世界の麺のルーツとされている。もちろんこれはひも状のものではなく、平たい団子。

練った小麦粉を平たく延ばして刻んだ「剪刀麺(せんとうめん)」が登場したのが唐代(618〜907年)。
これが宋代(960〜1127年)に及んで「切麺(せつめん)」と呼ばれるようになり、やがて単に「」と呼ばれるようになった。

【中国の麺の種類】
@「拉麺(ラ・ミエン)」-小麦粉を練ったものを拉(ひっぱる)したもの。手延べで作った麺。
A「切麺(チィェ・ミエン)」-小麦粉を薄く延ばして手本だたみにして小口切りした麺。
B「打麺(タ・ミエン)」-青竹に足を掛けて麺帯を延ばし、折りたたんで包丁で切る麺。
C「刀削麺(ダオ・シュェ・ミエン)」-麺塊を肩に乗せ、特殊な包丁で沸騰した湯の中に生地をそぎ落としていく麺。
D「棹麺(カン・ミエン)」-麺帯を麺棒で延ばし、折りたたんでは延ばし、たたんだ生地を包丁で切る麺。
E「全蛋麺(チエン・タン・ミエン)」-卵をつなぎに使った麺。

【インスタントラーメンの歴史】
1958年(昭和33年)8月25日に、「サンシー殖産(現・日清食品)」が発売し、大ヒットした商品「チキンラーメン」が最初とされている。

発明したのは同社創業者である安藤百福氏。
中国の清代(1644年〜1911年)に存在していた「伊府麺(イーフーメン)」というフライ麺をヒントにしたといわれている。

【日本人で最初にラーメンを食べた人?】
1669年(寛文9年)に徳川光圀(水戸黄門)が中国渡来のラーメンに舌鼓を打ったとされている。

当時小石川の水戸藩邸で大日本史という日本の歴史書を編纂していた際、光圀はスタッフたちにお手製の「黄門うどん」をふるまっていた。

そのスタッフの一人中国人の儒教者「朱舜水(しゅしゅすい)」が、その返礼に中国式の麺を光圀にご馳走したといわれている。

水戸藩ラーメン
東映太秦映画村(京都府)内にある「らーめん喜らく@太秦広隆寺」の水戸藩ラーメン(イメージ)。

水戸光圀が食した日本で最初とされるラーメンレシピを、当時の文献を基に忠実に再現したものを提供している。

特徴は、麺と薬味にある。
麺は小麦粉と藕粉(ぐうふん=蓮根の粉)を混ぜたものを使用。
小皿のトッピングは五辛(生姜・ニンニク・ニラ・ネギ・ラッキョウ)と呼ばれる薬味。
五臓の『気』を発するといわれ、光圀はこの五辛を添えて食べていたと言われている。
スープは、鶏と豚。
具はなると巻、焼き豚、メンマ、椎茸、青梗菜。

ご当地ラーメンの歴史

【札幌ラーメンの歴史】
大正11年に北海道大学正門前に「竹屋食堂」が出来た。
創業は大久昌治氏。仙台出身の元警察官。

北大の中国人留学生の賄いを頼まれて、尼港事件をきっかけに樺太から札幌に逃れてきた料理人「王文彩」を雇い入れることになった。
彼の作る料理は評判が良く、多くの中国人留学生が食事に押しかけた。
中でも人気があったのは、「肉絲麺(ロウスーミェン)」(湯通した肉、筍や葱を載せた麺)。
その後、王文彩は店を辞め、李宏業とその義兄弟の李絵堂が竹屋食堂にやってきて料理人を務めるようになった。
肉絲麺は留学生の口には合うが、日本人客の口には油っこく合わなかった。
そこで、おかみさんは2人の料理人と相談の上、大正15年の夏、焼き豚・支那竹・葱を入れた今日のラーメンを生み出すことになった。

その後、ラーメン店が賑わうようになったのは、終戦直後の昭和21年から22年頃に屋台のラーメン店ができたことに始まる。
その中に後に「龍鳳」を開く松田勘七氏の店、西山仙治氏の「だるま軒」、大宮守人氏の「味の三平」があった。

「だるま軒」の製麺部門を独立させた西山孝之氏は様々なラーメン店と共同で麺の研究を重ね、のどごしが良く見た目もきれいな、太めでちぢれた黄色い玉子麺を作り上げる。
「味の三平」の大宮守人氏が味噌ラーメンを考案し、札幌ラーメンの原形を作った。

昭和30年後半から40年代にかけて全国の百貨店などの北海道物産展で札幌ラーメンの実演販売が行われ反響を呼び、全国的なブームに拍車をかけることになった。

平成の時代に入って、従来の札幌ラーメンよりさらに濃厚なスープ、少し細めで硬い麺が特徴という旭川を発祥とする豚骨に魚介類のだしを加えたラーメンが出現する。
更に東京と同様に様々なラーメンが参入し、従来の「ラーメン横丁」、「新ラーメン横丁」に加え、「山桜桃」、「桑名」をはじめ、個性の強いラーメン店が集まる琴似エリア、ここ1〜2年で店の数が倍増、東京風から九州風まで各地のいろいろな味が揃う「狸めんこい通り」など新しい「ラーメン横丁」が出現しどこも賑わいを見せるようになった。

【味噌ラーメンの歴史】
味噌ラーメンは札幌の「味の三平」で生まれた。

店主大宮守人氏が単身赴任の「サッチョン族」のために、豚汁の中に麺を入れたところ大好評となった。
その後改良が加えられ、1杯のカロリーを考えスープの油を増やす一方、味覚を考え、ラーメンに野菜を炒めてのせ、その油を吸収させることを考案する。

昭和33年に正式メニューになり全国に広まった。

酒田ラーメンの歴史
@1926年(大正15年)に、天正寺町(現:相生町1丁目)で中国人の幡恒昌が「新盛軒」を開店したのが始まりであるという説。
A1926年(大正15年)に、戸野町(現:相生町1丁目、御成町)で中国人の金周培が開店した「財源軒」であるという説

諸説あるが、1927年(昭和2年)頃からラーメンをメニューに入れるお店が急増した。
現在もある店では「大来軒-寺町(現:中央東町)」が、1930年(昭和5年)に開業したのが一番古い。
主な老舗の系譜としては、「大来軒」の系譜、大来軒から派生した「三日月軒」の系譜、「港月食堂(閉店)」の流れをくむ「満月」の系譜がある。

【スープの特徴】
・透き通った醤油味のスープ。
・主に煮干し、トビウオの焼き干し、コンブから出汁をとっている。
【麺の特徴】
・自家製麺の比率が約8割と非常に高い。
・加水率が高く、熟成させている。
【具の特徴】
・チャーシュー(豚もも肉)、メンマ、ネギが基本。
・ワンタンは、生地が極薄。

中国人が引く屋台でラーメンが売られる(大正初期〜末期)
 中国人を中心に麺を出す食堂が出現(大正15年) 
新盛軒財源軒
 港月食堂(創業年不詳・閉店)※1へ  大来軒(昭和5年創業・閉店)※2へ

※1  港月食堂(創業年不詳・閉店)から派生したお店
 満月(創業昭和35年)満月@酒田
 【満月から派生したお店】
・清宝苑(昭和43年創業)
・新月(昭和50年創業)
・昇月(昭和55年創業)
・隆月(昭和59年創業)
・華月(平成17年創業)
・花鳥風月(平成18年創業)

※2  大来軒(昭和5年創業・閉店)から派生したお店
・大来軒・遊佐支店(昭和23年創業)
・大丸(昭和47年創業)
・駅東大来軒(昭和47年創業)
・大来軒・上安町支店(昭和56年創業)
・とみ将(平成8年創業)
・大来軒・中央支店(平成16年創業)  
 三日月軒・中町店1号店(昭和31年創業)
・ 三日月軒・今町2号店(昭和37年創業)
・ 三日月軒・北千日町3号店(昭和39年創業・閉店)
・中の口 三日月軒(昭和42年創業)
・ 三日月軒・相生町店(昭和46年創業・閉店)
・ 三日月軒・若竹町店(昭和46年創業・閉店)
・ 三日月軒・駅東店(昭和47年創業)
・ 三日月軒・高砂町店(昭和51年創業)
・ 三日月軒・秋田店(昭和53年創業・閉店)

【喜多方ラーメンの歴史】
大正の末期にとある中国人が屋台を引きながらラーメンを売り歩いたことから始まったと言われている。
その屋台とは「潘欽星」で現在の「源来軒(昭和14年創業)」である。

【東京ラーメンの歴史】
明治43年、浅草新畑町3番地、すしや横丁の一角に「來(来)々軒」が出来た。
日本のラーメン店の元祖とも言える。

当時、東京で一番の繁華街が浅草、流行の発信基地でもあった。
当時、既に中国料理の店は誕生していたが、庶民的なラーメン、シューマイ、ワンタンを提供したのはこの店が初めてである。

來々軒の創業者尾崎寛一氏は横浜税関の役人だった。
当時の横浜南京街の中国料理に親しみがあり、その経験を元に庶民的な中国料理を提供する店を開いたのではないのだろうか。

その業績は大きい。
その來々軒のラーメンは麺は小麦粉と卵にかん水の手延べの麺、スープは鶏ガラと豚骨に野菜を加えた醤油味。
具は焼き豚、シナチク、刻み葱。
まさに現在の醤油ラーメンである。
当時一杯6銭。昭和51年(1976)に閉店。

【尾道ラーメンの歴史】
昭和3年頃、中国福建省出身の張氏がチャルメラを吹きながら売り歩いていたのがはじまり。

麺は青竹で麺帯を延ばし手廻し機械で麺線をつくったもので、スープは牛骨と豚骨で摂った白濁したものだった。
昭和30年から40年にかけて、尾道ラーメンは鶏ガラ、瀬戸の魚介類を主体とした透き通ったスープになった。

【博多ラーメンの歴史】
博多ラーメンの歴史は昭和15年頃と推測される。
三馬路」、「浜荘」という2件の屋台が博多区に出来る。

昭和30年には福岡の天神から長浜に魚市場が移転してきた。
忙しい市場に来た人のために提供されたラーメンはコストの安い豚骨スープに茹で時間の短い特製細麺、“早い、安い、旨い”を実現させた。
これが博多ラーメンの源流となり広まって行く。

【熊本ラーメンの歴史】
昭和22年頃、当時久留米にあった「三九」で、偶然煮詰まって出来た白濁スープから始まったとされている。

「三九」がその後玉名に支店を出し、玉名から熊本に伝わったというのが定説になっている。

熊本ラーメンの特徴である白濁したスープに太い麺、ニンニクチップやマー油と言ったスタイルは、昭和29年に開業した「東洋軒」、「こむらさき」、その翌年開業の「桂花」が元祖と言われている。

【鹿児島ラーメンの歴史】
昭和22年創業の「のぼる屋」が元祖と言われている。
このラーメンは、道岡ツナさんが横浜で学んで来たものである。
道岡さんは、当時横浜で看護婦をしている時、患者であった中国人料理人にスープの作り方を習ったという。

麺は、カン水を使わない白っぽい麺。
スープは豚骨が中心ではあったが、トリガラや野菜も使い、じっくり炊き出したものであった。
九州で唯一、久留米の影響を受けていないラーメンである。

【沖縄そばの歴史】
・琉球王朝時代に中国の冊封使(皇帝の使者)の長い滞在を慰めるために、中華麺に真似て琉球風にアレンジして献上したという説。
・明治時代、那覇の東町界隈の鹿児島商人が最初に始めたという説。 
 

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